2014-10-11

いわゆる"Principle Argument"とis-ought problemについての考察を試みる

※最初に断わっておきますが内容が当を得ている保証はありません。エジュケ用ではなく1年生などにはかえって混乱をきたす可能性があります。

*Principle Argumentとis-ought problem
Principle Argumentってなんでしょうか? たぶんPractical Argumentと並置されるタームであろうことは合意が得られると思うのです。でもどう定義しましょう? PrincipleとPracticalの区別がはっきりしないということはSheng Wuによってすでに言われています(http://trolleyproblem.blogspot.jp/2012/12/there-is-no-coherent-distinction.html)。だからリフレクでPrincipleとPracticalの単純な二分法で話すのが好まれないわけです。

でもここでis-ought problemに関するヒュームの議論(http://en.wikipedia.org/wiki/Is%E2%80%93ought_problem)を踏まえて考えてみると少しばかり整理が付けられるように思うのです。批判を恐れずに説明してしまえば、これはつまり「~である(価値判断を伴わない事実のステートメント)」というステートメントをどれだけ重ねていっても「~すべき(価値判断のステートメント)」という結論は導けないということです。たとえば「人を刺したら肉が切れる」、「肉が切れたら出血する」、「出血したら体内の血液が減る」、また「血液は脳などの臓器の維持に必須」、「臓器が損傷したら死んでしまう(可能性がある)」→結論として「人を刺したら死んでしまう(可能性がある)」は"is"のステートメントを重ねていけば順当に導けます。でも「だから人を刺してはいけない」と"ought"(shouldとだいたい同じ意味を持つ助動詞です)に移行することには明白な論理の飛躍があります。あらかじめ「人を殺してはいけない」というoughtのステートメントが与えられているときには正しいですが、それはさっきまでの"is"のつながりからは永遠に導かれないわけです。

このisからoughtに移る壁がディベートに大切になるのはなぜでしょうか? それはディベートはほとんどの論題において結論としてoughtを求めるからです。ポリシーモーションにおいては1.未来がどうなる「べき ought」か、2.その政策において未来が「どうなるか is」が必要です。「景気を回復させるべき ought」と「この政策をとれば景気が回復する is」の二つによって「この政策をとるべき」が言えます。そしてThis House WOULD do Xにyesあるいはnoという答えを出すためにはThis House SHOULD(SHOULDN'T) do Xを示すことが必要十分条件だと考えます。

(蛇足)なおこの「べき」はよい・わるいの価値とは必ずしも対応しませんが、以下では説明の都合で混同して用います。なぜ対応しないかというと、ある行為が「よいこと」あるいは「正義」だったり「善」だったりしても、だからある主体がその行為を「するべき」かは明らかではなく、それは主体の性質、立場や役割によるからです。たとえば命をかけて国のために戦うことはよいことでしょう。そして軍人はそれをするべきでしょう。しかし同じよい行為でも民間人がそれをするべきとは言えません。行為自体は同じなのに主体が違うと「べき」だったりそうでなかったりするわけです。

もちろん例外はあります。ポリシーでないモーション、たとえば"THBT the world was better off during cold war."のようなものは直接的には"is(was)"の結論を求めます。しかしこれにしても、"the world SHOULD be in this way"というoughtのディベートと、現実はどうであったかというis(was)のディベートが組み合わさっているという点では変わりません。あるいはregret系のディベートも過去を向いている点ではこの種のものですが、やはり原則は同じです。

ですから「どうなる」のisだけディベートしてもけっきょく結論は導けないわけです。一方でoughtだけディベートしようと思ってもあまりうまくいきません。というのはほとんどの「~べき」論は「~になるから、~すべき」というふうにできていて、isの部分が欠かせないからです。たとえば「電車の中では携帯電話で通話をしないべき」という主張は「人の迷惑になることをしてはいけないから」という理由でサポートされるでしょうが、それが成立するためには「電車の中で携帯電話で通話すると人の迷惑になる」(isのステートメント)という前提が真である必要があります。ですから「いやいや電車の中で会話しているのと一緒だろう」と言われて反論できなかったら「人の迷惑になることをしてはいけない」というステートメントが手つかずで残っていたとしても「迷惑にはならない」→「通話してもいい」となってしまうわけです。

(蛇足)oughtの結論につなげるためにどのようなisのステートメントが証明される必要があるかはモーションとoughtの「距離」によって変動します。例で説明します。「人を殺してはいけない」というoughtのステートメントを使ってモーションを否定したいとします。そのときにはつなげるために「政策をとる」→「事象Xが起きる」→「事象Yが起きる」→「事象Zが起きる」→「人が死ぬ」、「だから政策をとってはいけない」と結論するわけです。このときには政策をとってから人が死ぬまでの矢印で示した"is"の連鎖を全部守りきらなければなりません。何ステップもあれば守りきるのはなかなか骨が折れるでしょう。一方で距離がない場合もあります。政策そのもののアクションが行うべき・間違っていると言える場合です。極端な例ですが、たとえばTHW push the man(あの例の橋から太った人を突き落して列車を止めてほかの人を救うというやつです)においてモーションの文脈で押したらその人が死ぬことはすでに仮定されているので、「人を意図的に殺してはいけない」というoughtは間にisのステートメントを挟まないわけです。ただ今度はそれはそれでなぜ殺してはいけないのかを問われだしてしまいますが、それはあとで触れるought同士の対立の問題になります。

*oughtに到達する
では実際のディベートではどのようにoughtの結論にたどり着けるのでしょう?
**1. コンセンサスとなる
これは起こってしまえば一番手っ取り早いです。相手もoughtの部分に同意してしまえばその点は争いになりません。たとえば"THW trade with oppressive regime"において両サイドともoppressiveな状況から市民を救うことをゴールとした場合、残る争点はどちらの政策がoppressiveでなくせるかというisの争いだけになります。

とはいえこれは相手サイドの出方に依存しますからoughtにたどり着ける方法として自分の意思で利用できるわけではありません。

**2. 既存のoughtとつなげる
相手とのコンセンサスにならなくてもまだ方法はあります。私たちの即興ディベートは一般の聴衆を説得するものです。だからこそジャッジはaverage reasonable person略してARP(average inteligent personだったりglobal informed citizenだったりしますがなんでもいいです)だということになっています。そういう一般の価値観はまったくの白紙ではありません。人が死ぬことは悪いことだというのはほぼすべての場合において認められます。また差別も悪いことです。平和や公平はいいことに違いありません。そして抽象的ですが「幸福」は多くの場合で否定しがたいゴールであり、"is"をつなげていってどちらが幸福により近づけるかを争うことになるディベートは非常に多くあります。何が幸福なのかで争いになることはしばしばありますがそれはまた別の話です。そして個人が選択の余地を持てば幸福になれるという考え方から自由が重んじられます。このへんは常識的に考えてあたりまえですね。この「あたりまえ」の感覚がけっこう大事で、このような「ジャッジとの間でコンセンサスになる」ような価値判断を利用していくことが説得につながるわけです。ですから政策を行った・行わなかった結果をこういった一般の人たちがもともといい・わるいと認めている帰結につなげて、逆に相手がつなげようとする試みは妨害していくことになります。いわゆる「Practicalなディベート」は上の1番かこのパターンかに属します。たとえばTHW introduce carbon taxで、Govサイドから「APでは環境を守れるが、経済は悪くならない」と主張していき、Oppはその逆を主張するものの環境と経済のどちらを守るべきというような議論はないような場合です。

(蛇足)この「つなげる」という行為はさらに二つに分類できると考えます。一つにはcausation、もう一つはsimilarityです。政策がすでによい・わるいとみなされていることを引き起こすように事象と事象の間で因果関係を作るのがcausationです。たとえばdeath penaltyのモーションではdeterranceという概念を用いて犯罪減少(=よいこと)との因果関係を示そうとすることでしょう。一方でsimilarityは政策やそれによって引き起こされる事象がすでによい・わるいとみなされている事象に類似し、等価であることを示すわけです。たとえばoffencive art規制に関するモーションではそれがhate speech(=わるいこと)に類似していることを示そうとするでしょう。よく線引きの議論と呼ばれるやつですね。

とはいえ実際のディベートではそこまで簡単にはいきません。よほどチームの間でレベルの差がある場合でもない限り、APではきっと環境は守れるかもしれないけど経済にはいくらか悪影響はある、といったところに至ってしまうでしょう。こうなるとジャッジは困ります。環境は大切、経済も大切、どちらも既存のoughtですが、二つ比べてどっちが大切かとなるとARPのレベルでは判断できません。もう少し現実的な言い方をするとジャッジとしてはそこまで踏み込むのは過剰な介入ととらえられるのでやらないということです。

**3. 既存だが説明が必要なought
人が死ぬ、といった明らかな悪いことだけがディベートの主題ではありません。人が死ぬのはいついかなる場合でも避けるべきこと(極限的な状況(刑罰・安楽死)や境界線(中絶・脳死)などではディベートになる余地はありますが)ですが、世の中にはもっと微妙な価値があります。たとえばプライバシーが侵害されるというようなharmを出すとすると難しいでしょう。たしかにプライバシーってなんとなく一般の人が分かる概念でなんとなく大切そうだということは知られています。でも、抽象的なので1.そもそもプライバシーって何なのか、そして2.それが今回の状況でどう害されるのかの両方が必要です。これは人が死ぬという話より込み入った話になりますね。さらに、「人が死んだらどうして悪いのか?」という問いはなされない一方で、「プライバシーが害されたらどうして悪いのか」という問いは飛んできます。これはつまり、プライバシーは間接的な価値にすぎず、ほかのものを守るために守られるけれど、それ単体として絶対に守られるほどの価値は認知されていないということです。少なくともジャッジにそれを期待するのはかなり危ういのです。ですからけっきょくプライバシーは本当の意味でのoughtとは言えないわけで、3.幸福や自由などのより否定されにくいoughtにisでリンクしていく必要、も出てきてしまうわけです。これはデモクラシー、文化、宗教などにかかわるディベートに多いパターンです。

**4. 新しいoughtのステートメントを作れるか?
既存でないoughtのステートメントをディベートの中で打ちたてていけるのでしょうか? 基本的にはディベートの中でde novo(はじめから)でoughtのステートメントを作ることはできないと考えます。価値の創造は一朝一夕にはできないのです。たとえば環境保護という考え方は20世紀の途中から支持を得ていったわけですが、それは環境が人の命や生活など人がすでに認めている価値を守るために必要だという意味で間接的に価値を認められた(つまり、環境が壊れる→人に害というisのステートメントの接続が生じた)だけにすぎず、環境が直接に守られるべき(ought)とは必ずしもみなされていません。つまりちょうど上の2番のパターンですね。環境が失われれば人にも影響があることが暗黙的な了解になっているため一見すると直接的に環境を守っているように思えてしまいますが、なぜ守らなければならないかと問えば実際は間接的な理由なのです。

けれども他方では人の生活への影響を問わず環境そのものを守ることに価値を見出す人たちもいるし、そういう考えが拡大していることは事実です。でもそれは美しい環境が無残に破壊された様子のセンセーショナルな写真が報道されるなどして起こった現象で、ディベートの中でそこまで新しい思想を生み出すことはできません。

別の例としてAnimal Rightは人に影響しないし間接的な価値として生まれた感はありません。しかし人間との類似性、同じように痛みを感じるsentienceを持っているのだから守られるべきだというところから発展してきています。上で説明したsimilarity、つまり人の権利を土台にして拡張しているわけです。ですからoughtをまるっきり何もないところから生み出しはいません。人の権利は守られるべき(ought)→人と動物にはある程度類似性がある(is)→動物の権利もある程度守られるべき(ought)、という構図なのです。実際、人権思想がないところで動物が守られることは考えにくいですよね(生類憐みの令みたいな反例がぱっと浮かびますが、支配者がたまたま動物好きだっただけで社会として動物を守る価値観を共有していたわけではありません)。

またその人権を例にとって考えてみても、人々が権利を勝ち取るまでにどれほどの闘争を必要としたかを振り返れば、人の信じる価値というものはよほどのことでないと変わらないことが分かります。ですからディベートの中ではあくまですでにあるoughtを使うことしかできません。

5. 組み合わせて新しいoughtを作る
まったく新しくoughtのステートメントを作れないとしても、すでにあるものを組み合わせていくことはできるはずです。それはどのように可能なのでしょうか?

A. 複数のoughtが存在して優先順位をつけるとき
ここはある種のpracticalな、言い換えれば功利主義的な比較においてどちらが重要かを主張することができるはずです。規模とか、時間とか。あるいはどっちのほうが弱い、どっちのほうが責任がないなどの功利主義以外の価値観に基づく比較も可能で、それによりある種の新しいoughtのステートメントが作れるはずです。たとえば国家はプライバシーを守るべきというoughtと、国家は国民の安全を守るべきというoughtがあったら、後者がないと前者も成立しないのだからプライバシーと安全を天秤にかける時は安全を優先すべきというoughtができるわけです(反論の余地はもちろんありますし雑な議論ですがあくまで例として)。

B. 目的・役割分析を行うとき
これも上に似ているかもしれません。学校教育においてどうすべきとか、あるsocial movementがどうすべきとか、そういう話が出てくる場面においてはその団体や組織のuniquenessというか、目的を考えるとこれを追求すべき、といった主張が出てきえます。

(この辺未完ですが数か月放置してしまっているのでもう見切って書き終えてしまいます。)

唐突ですがメタファーを導入しつつまとめに入ります。

ディベートではたいていoughtの価値判断が必要になります。「oughtの水」みたいなものが地表の泉から湧き出ていると想像してください。ちょっと言い換えれば「正義」とか「善」がなぜか液体で湧いているのです。そして政策はどこかの地点に位置します。目指すのは湧いている水を自分の政策まで引いてくることです。別のところでought not(不正・悪)が湧いているのでそれを相手の政策に送る(harmを生じさせる)こともします。

Principle Argumentは新しく泉を作るわけではないですが、すでに湧いている泉を大きくしたり手入れする道具になります。そしてPractical Argumentは泉からモーションまで水を引いてくる水路の役割を果たすわけです。しかしある一つのArgumentが両方の働きをすることもあり、厳密に分けることはできません。

ときにPrincipleはコンセンサスとなります――両サイドが泉を共有して、どちらが自分の政策へより多くの水量を引けたかを競うわけです。でもそうでないとき、別々の泉を使うときもあります。そのときには、きちんと水路で水を引くことはもちろん必要ですが、どちらの泉のほうがいい水なのかを競うことも必要になります。ですから泉を手入れしてよりきれいにする必要があり、逆に相手の泉は汚染しようとするわけです。これがPrinciple同士の争いです。

Tab覚え書き

ほんとにただの覚え書きです。わかる人にはわかると思うけどそういう人はこれ読まなくてもわかるはず。

Tabbieについて

・セットアップは展開して実行するだけなので超簡単
・起動してブランクのデータができた時点でチームなどの入力を始める前にバックアップを作る。作った.sqlファイルはテンプレートとしてテキストエディタなどで編集できる。
・チームの登録はtabbieからブラウザ上でやっていると入力ミスしてチーム消しても消えなかったりしてトラブルの元。.sqlファイルを直接編集してレジのデータを整形したものを入れたほうが楽→簡略化するためマクロとか作りたい。
・ということで大学、チーム、部屋、スピーカー、ジャッジの登録は直接編集しよう。コンフリクトはブラウザ上で入れていってもいい。
・いったんドローを引いてしまうと戻せないので要バックアップ。
・外部からアクセスさせるには.htaccessを編集(これで解消できるのは403が出てるときのみ。そもそもつながらない時はほかの原因)ファイアウォールなども要確認。
・同じジャッジが繰り返し同じチームを見る問題は別途カウントするしかない→excelつくったのでuploadする予定。

3tab

外部からのアクセスを実現するにはTabbieのときと同様の.htaccessをwamp\www\に放り込む。
NAに使うときは3人目を適当な名前で登録し、0点にしておいて発表するタブでは消す。

データをクリアしたいときはとりあえずバックアップして、そのファイルから「スキーマのみ」をチェックしてリストア。

スコアレンジとかの設定ファイルはwamp\www\3tab\apps\3tab\config\app.ymlとwamp\www\3tab\cache\3tab\test\config\config_app.yml.php。二つがどう効くのかは不明だが少なくとも前者だけ書き換えても意味なし。

.cssいじったらマッチアップ見やすくできる?

オンラインジャッジ評価構想

Google Formから入力がおそらく一番無難。アクセスできない人はほかの人の端末借りるorコミで対応(この場合個人フィードバックを聞いてからになってしまう可能性があるが、反映しないようにお願いするしかない。現状でもRFDが短ければ評価シート回収前にフィードバック聞く可能性あるし大きくは変わらない)。入力したものはaccessのDBに貼り付ける。問題は提出漏れ。ディベーターは必ず提出するので一覧から提出がないところはすぐ見つかる。ジャッジは出てないのが1人ジャッジのせいなのか3人ジャッジなのに忘れてるのかの検出が困難→ディベーターからの評価にジャッジ人数を書かせれば一覧上で気づきやすいはず。重複提出はすぐわかるので問題ない。